桜雲桜人、冤鬼零桜 三幕
1
森は緑で溢れ、瑞々しい光を放った神社の境内にはいつもの面子が揃っていた。
「清正ぁー!犬!境内に犬いるぜ、犬!綿の花みてえ!」
「騒ぐな馬鹿。お前の方がよっぽど犬っぽいぞ正則」
あの出会いからすでに十数年を数え、二人は十七の春を迎えていた。
すでに名を改め、虎之介は清正、市松は正則と名乗っている。
だが二人の根本は何も変わらず、大きくなってからも養父母の為にと村で働きながら平穏に暮らしていた。
尤も、二人に当時の記憶はなく、不思議な出会いも忘却の彼方へと飛んでいた。
それでも何故か心に浸る思いがあるようで、森へと続く道すがらにあるこの神社は二人の憩いの場となっている。
「騒がしいと思っていたが……やはりお前達か」
「おい、俺は何も言ってねえよ。騒いでたのはこの馬鹿一人だ」
社務所から現れる白い影に飛び上がって驚く正則にちらりと視線を寄越し、清正は呆れ気味に主張する。
男の名は吉継といい、数年前にこの村へとやってきた。
この神社の前の神主が亡くなり、跡を継ぐ者がいなかった為に管理が行き届かず、村長である清正達の養父の秀吉が見るに見兼ねて隣国にある大きな神社から人を呼び寄せたのだ。
始めはすぐに次の神主がやってくると思われていたが、なかなか去就が決まらないままに数年が経ってしまい、今では祝部の吉継が実質この神社の主となっていた。
狩衣に首から口までを隠すような大きな襟巻をつけ、大きな頭巾を被っている所為で目鼻以外顔が見えず、表情は解り辛い。
それだけでなく言葉少なく仄暗い印象に、最初の頃は馴染めなかった清正達も、吉継の思慮深い内面に触れ次第に仲良くなっていき、今ではすっかり兄と慕う存在になっていた。
「吉継、見てみろよ!犬だぜ、犬!」
「犬?ああ……あれは先日幸村が拾ってきた子犬だ。道端で大きな野良犬に襲われていて可哀想だと言って……ここで飼うことにしたのだ」
幸村は村にある寺に預けられている子で、年は離れているのだが吉継に懐いていてよくこの神社へも遊びにきていた。
居候の身では犬を養う事は出来ず、だが放り出す事も出来ず困っていた為、境内の隅にある小さな荒屋で一人気ままに暮らしている吉継が引き受けたのだ。
「おいで、さくら」
犬は吉継にすっかりと懐いている様子で、名を呼ぶと勇んで駆け寄ってくる。
正則は吉継に抱き上げられた子犬に手を差し出そうとするが、やおら唸りを上げられてしまい急いで手を引っ込めた。
「嫌われたな、正則」
「あんだよ!何もしてねえじゃねえか!」
清正にからかわれた事も気に食わないと犬をいつもの調子で睨みつけるが本格的に吠えたてられ、戦意を失った正則は清正の後ろに下がった。
「敵だと思われてんだろ。それにしても風流な名前付けたんだな」
真っ白でふかふかとした毛並みの犬には些か合わない名ではと清正が首を傾げる。
「幸村がな、桜の木の下で拾ってきたからそうつけたんだ。ん……?お前、また鎮守へ行ったのか?」
木の葉をたくさん体に付けているのに気付き、毛を撫でながらそれを綺麗にしていく。
「さくら?」
突然に腕の中で暴れ始めるさくらに耐え切れなくなり、力を緩めれば途端に地面へと下り、一目散に駆け出した。
そのまま森へと入っていくかと思われたが、木陰に佇むと吉継の様子を伺い一つ鳴き声を上げた。
「呼んでいるのか?」
清正の言がしっくりくるように、さくらはその場でぐるぐると回り、もう一度大きな鳴き声を上げる。
その先に何かがあるのか、それとも何かに気付いたか。
「さあ……だが―――」
その時だった。
風の流れにふわりと漂ってくる桜の香りと涼やかな声に吉継は強烈な眩暈を覚えた。
すぐに眩暈は治まったが、断続的に頭に流れてくる声がだんだんと大きくなってくる。
「どうした?大丈夫か吉継」
「おいおい、元々のなまっちろい顔が余計白くなってんぜ?どっか具合悪ぃのか?」
「いや、大丈夫だ。それよりさくらを捕まえてきてくれないか。ひとりで森へ入って野犬にでも襲われたら……」
境内にある鎮守の森ではなく、立ち入り禁止となっている森の奥深くへ行っては迷子になってしまうかもしれない。
今までは暗い場所を怖がり入り込みはしなかったのだが、何かに呼ばれるようにさくらは暗い森の中へと駆け出した。
足の遅い自分では追えないと清正達に頼むと二人はすぐさまさくらを追って森へと入っていった。
「うぉおおらぁああ!っしゃあああ!!捕まえたァ!」
正則は時々後ろについてきているかを確認するように足を止めるさくらに飛びかかり、捕まえようとするのだが寸前のところでするりとかわされてしまう。
同じような事を何度も繰り返す正則から目を逸らした清正は暗い森の奥で淡い光を放つ物に気付いた。
「……何だあれ。あの光みたいな……」
「ああ?蛍でもいんのか?」
「季節じゃねえだろ、馬鹿」
さくらもその方向にいるのか鳴き声が聞こえる。
恐る恐る藪を掻き分けそちらに向かうと、その姿が現れた。
光の正体は間もなく咲くであろう桜の古木だった。
小さな、幅は恐らく三間程の池の側に立ち、池の水面には森の緑が映っている。
桜の季節にはここに花びらが散り、さぞや見事な風景となる事が伺える。
「桜……だな」
地上遥かに伸びた枝には触れば音を立てて開きそうな蕾が無数についている。
それを見上げ、二人は感嘆の息を漏らす。
「おい清正ァ……この木、何か見覚えねぇか?」
ふいに思わずといった風に正則が言い始める。
そんなはずはない。
この森はずっと立ち入り禁止となっていて、ここへ踏み入ったのは初めてのはずだ。
だが正則の言葉を即座に否定できない清正の心にもまた、同じ思いが浮かんでいた。
自分はこの木を知っている、と。
しばらく言葉もなく呆然と眺めていたが、遠くからする吉継の声に意識が戻ってくる。
僅かの時ではあったが、頭の中が霞がかり、真っ白な意識の中にいたような感覚だった。
その奇妙さは言葉に表せるものではなく、またそれは正則も同じ思いをしていたのかしきりに額を摩りながら首を傾げている。
「どうしたんだ?」
駆け寄るさくらを抱き上げながら近付いてくる吉継も、見事な枝振りの桜に意識が取られたらしく、しばらくは言葉もなく頭上を見上げている。
「吉継ー何か変じゃねえか?この木。俺馬鹿だしよ、何でかってのはよく分かってねえんだけどさ。でもなーんか変だぜ」
「そうか?立派な桜だ。とても立派な……」
「俺には朽ちかけの古木に見え―――」
「清正。さくらを」
口を開きかけた清正にさくらを押し付けると、神社に幸村が来ていて心配しているから早く連れて行ってやってくれと頼んだ。
何か思うところがあるのだろうかと、まだ不思議そうな顔をしたままの正則とさくらを連れ、清正は神社へ戻って行った。
二人の背中が消えたのを見計らい、再び頭上へと目を向けた吉継ははっきりと言い放った。
「先程の声は、お前か」
白らかな梢の隙から見え隠れする白に向けて話しかけるが返事はない。
幹の影に隠れているつもりなのだろうが、長い袂が見えてしまっている。
吉継はふっと息を漏らすともう一度声をかけた。
「あの二人ならば村へ返した。ここには誰もおらぬ。俺だけだ」
しばらく相手は黙っていたが、視線を変えずに見据えていると観念したのか不機嫌な声が返ってきた。
「その様子では、本当に見えているようだな」
「ああ」
ふわりと体が地面に落ちてくるが吉継は顔色一つ変えずその様子を目で追う。
「貴様、何故驚かない」
「お前の方が驚いているように見えるな。驚いてほしいか?」
「いや、俺が見えている時点でお前も人ならざる者なのだろう」
吉継は衿の中でふっと口角を上げる。
ただの人で間違いないのだが、人ならざる者は昔からよく見ていた。
あやかし、幽霊、神仏の類、その他諸々。
実体がなく誰も見えないというものが幼い頃からよく見えていたのだ。
だが目の前の男は今までに会ったそのどれにも感じられなかった不思議な空気を纏っている。
人ならざる者であることは間違いないのだろうが神々しさもなく、かといって禍々しい気配もない。
淡い光を放つように、ほんのりと温かい空気のようなものが桜の香りと共に流れてくる。
ただそれだけだった。
「何だ、じろじろと見て。そんなに俺が珍しいか」
感情の振れは人とそう変わらない、このやたら容姿の良い水干姿のこの男は一体何者なのかという興味が湧いた。
年の頃は清正達とそう変わらないように見える為にその装束は些か旬を過ぎているのではと思うが、涼やかな見目に真っ白な装束はよく似合っている。
反面襟や袖を絞る紐は桜色に色付き、彼の白面と赤い髪に映えていた。
「お前はここに棲んでいるのか?」
「ああ。俺はここから離れられん」
「それで"さこん"という奴を呼んでいたのか」
「貴様、左近の行方を知っているのか?!」
胸が締め付けられるような、掻き毟られるような、泣いた子が母親を恋しがるような声で何度も呼びかけていたのだ。
さこん、さこんと。
その声に意識を絡め取られた気がした。
だが目の前の男は怒りを露わにしている。
どうにも人らしい者だと眺めていると痺れを切らせたように顔を逸されてしまった。
「知らぬならよい!貴様も早く戻れ」
「知らぬも何も、俺はそれが誰かを知らぬ。名は先程お前が呼んでいたのが聞こえただけだ」
今度は逸らした顔が見る見る真っ赤に染まった。
嚶鳴か、はたまた睦言を聞かれたかのような人の子と何ら変わりない様に思わず笑い声を漏らしてしまった。
それが気に入らないと思い切り睨まれるが、子供が拗ねているようにしか見えず、笑いを振り切る事が出来ない。
先刻清正がこの桜の木を貶すような一言を吐こうとした時も同じような空気を出していた。
それ故に清正の言葉を遮ったのだが彼の怒りの振れ幅は思った以上に低いようだ。
「すまない。からかうつもりはなかった。その"さこん"とはどの様な者だ?見かけたことがあるやもしれないだろう」
「左近、は……その、俺と違い背が高く、体つきも大きく男ぶりも良い」
それまで、彼の心から絞り出したかのような声に愛しい思い人だとばかり思っていたのだが、彼の言う"さこん"とはどうやら男だったらしい。
またそんな事を言えば彼の機嫌を損ねてしまうだろうと表情を変えずに、暫し半ば惚気のような話に耳を傾ける。
「そのお前の自慢のさこんは―――」
「じ、自慢などではない!このようにふらりとどこかへ行き、俺に心労をかけるような奴など誰が!お前達に迷惑になるようなら遠慮なく村から叩き出してくれ!」
素直ではない気性もまるで人の子と変わらない。
この可愛げのない態度で四六時中一緒となれば、さぞやさこんとやらは大変だろうなとまだ見ぬ男に同情を送る。
「その男かどうかは解らないが、一人思い当たる者がいる。時折村の酒屋に現れる男とよく似ているようだ」
「本当か?」
「ああ。村で見かければすぐ戻るように伝えよう」
それを望んでいるのだろうと申し出るが、いや、いいと即座に断られる。
不思議に思ったが、どこか思いつめた風の彼の姿にそれ以上何も言えなくなった。
また来ると伝え、その場を離れようとするが背中を呼び止める声に足を止めた。
「何だ?」
「名は?名は何という?俺は三成だ」
「……吉継。大谷吉継だ」
名を告げると三成は花顔を僅かに綻ばせた後、瞬きの隙に姿を消した。
最初に彼を見かけた梢の隙間を見上げると、ひらりとつぼみが一つ落ちてくる。
間もなくこの古木も花を咲かせるだろうかと思いを馳せ、吉継は神社へ戻っていった。
【続】