桜雲桜人、冤鬼零桜 二幕
1
「巫女様」
「―――村長ですか?」
「はい」
「貴方がここに来た理由はわかっています。元気な男の子でしたね」
「ありがとうございます―――」
「平安の都でも天子様がお生まれになったようです。縁起の良いお子ですわ」
時は遡る事千年。
平安の世。
雅な寝殿造の屋敷が軒を連ねる京の都からは遠く離れた山奥の村で、そこを統括する長に待望の嫡男が誕生した。
元気なその子は左近と名付けられ大切に育てられた。
その村は山奥にあり、外界から遮断された環境にある。
この村と隣りの村を繋ぐ唯一の隧道、その脇には大きな御社が建てられていて、そこにはその山を守る神様が祀られている。
そしてすぐ隣りには村の鎮守である大きな櫻の樹があり、それを守る生き神である櫻守【さくらもり】とその身の回りを世話する娘、櫻守ノ巫女が住んでいた。
巫女は不思議な力を持っており、子の名付けや未来への物見や予言、村の政への助言などを行っていた。
左近も例に漏れずその巫女に名付けられ、すくすくと成長した。
そしてその子が十六の年を迎える頃。
例年になく早咲きとなった桜が不気味な空気を運んでいた。
すでに村の中心となっていた左近は村をその不穏な空気から守る為に御社へと足を運んだ。
満開に咲く櫻の下に女が一人、瞳の中に飛び込んできた。
見たこともない鮮やかな薄紅銀の髪が薄紅の中に溶け込むように立っている。
「誰だ…?村の奴じゃねぇな……」
村の人間ではない。
この陸の孤島である村に他からの来客など皆無のはず。
ならば誰なのだ。
そう思いつつ足音を殺し、左近は静かに近付く。
「おい、お前……」
左近が声をかけると、その女が静かに振り返る。
驚いて見開かれる瞳とぶつかった。
そして体をを翻しそこから走り去ろうとした。
「待っ……!」
左近は僅かに手が届いた着物の袂を掴み足を止めさせる。
「すみませんね。驚かせるつもりはなかったんですが。あんた…この村の人じゃありませんね?どっから来たんです?」
下から覗き込んだその顔は真っ青になり唇が震えている。
何かに怯えているかのように。
「……て……全部忘れて下さいっ!」
そしてそう一言残し、腕を振り払い走り去ってしまった。
立ち尽くす左近と、金に光る羽衣を残したままで。
だが人間、忘れろと言われてそう簡単に忘れられるわけがない。
それでなくてもあんなにも印象的な出逢いだ。
左近は金紗を手に溜め息を吐いた。
薄紅銀の髪に金に光る布をかけたその姿は、夢か現か幻か。
翌日、左近は再びあの櫻の木の下にいた。
「来るわけない……か」
昨日彼女が落として行った金紗を手にもう何時間も桜の下に座っていた。
が、一向に彼女は姿を現さない。
日も暮れかけ、雁が群れを成して真っ赤に燃える西の空へと消えていく。
左近は諦め、手に持っていた金紗をその木に括り付けると村へと帰って行った。
そしてそんな出来事があってから長い月日が流れ、すっかりと忘れてしまっていた。
その頃左近はすでに父親から村の長を継ぎ、穏やかで平和な毎日が遅れるようにと日々粉骨砕身していた。
だが同じような不穏な空気を感じた春の事だ。
あの日の出会いをふと思い出し、左近は久々にあの御社へと向かった。
何かに引き寄せられるように、という表現がまさに正しく、二十年近く時が経ち当時の面影すらない獣道を只管歩いた。
やがて見えてきた覚えのある桜の木の下に、彼女はいた。
ようやく会えたと思ったが何か様子が違う。
あの日と同じ金紗を頭に被ってはいるが随分と背が高い。
彼女ではないのだろうかと恐る恐る近付くと、やはり同じように逃げようとするその人の腕を掴み引き止めた。
「待った!」
刹那、交わされる視線に左近は酷く驚いた。
それは彼女によく似た男だったのだ。
風にふわりと漂う桜の香りに頭の芯がくらりと歪む。
「は、離せ!!離せ無礼者!」
腕を振り払おうと必死にもがくが腕の立つ左近の力に敵うはずもなく、金紗を地面に落としただけで振り払う事は適わなかった。
「驚かせて悪かった。俺はそこの村の者ですよ。あんたの敵じゃない」
青い顔で俯く男にそう言って安心させようとするが、肩の震えが止まる事はない。
カタカタと歯まで鳴らして怯える姿は尋常な様子ではないと思い、左近はとにかく落ち着くようにと優しく語り掛けた。
腕を掴む力を緩めても逃げる様子は見せず、左近は手を離すと細い肩を何度も撫でた。
そしてようやく落ち着いたようでおずおずと視線を合わせるように顔を上げる。
「す、すまなかった……取り乱して……」
「いえ、こちらこそ驚かせてしまったみたいで。俺はその村に住む左近。島左近です。あんたは?」
男は少し躊躇ったようで考える様子を見せる。
だがじっと見つめて数秒、震える唇から洩れる吐息が音を含んだ。
「み、三成……三成、だ」
「三成さん。よろしく三成さん」
少し低い位置にある視線に合わせ、子供と話す時のように顔を覗き込むと少し警戒を解いたようで表情が和らいだのが解った。
その機会を逃さず左近はまた来ても良いかと尋ねた。
だが否定も肯定もされず、ただ沈黙だけが流れる。
「この辺りは何もありませんが……もしやその御社に住んでるんで?」
ぎくりと揺れる肩が肯定を示した。
何か人に言えない事情で隠れている為、こうして怯えているのだろう。
左近はその存在を絶対に秘密にすると誓った。
すると三成はそれを信用してくれたようで、ようやく体の力を抜き左近と向き合った。
「また……来てくれるか?その……初めてなのだ。人と、話すのが。だから―――……」
「ええ、あなたさえ良ければまた来ますよ。必ずね」
「そ、そうか」
不安げに尋ねていたが、左近が頷くのを見て大きく安堵の溜息を吐いた。
その様が存外に幼く左近は思わず顔を綻ばせる。
ひと回り以上は年下に見えるが氷のように冷たく美しい顔には正直惹かれるものがあった。
あまり見ない赤い髪がさらさらと風に揺れる度にする桜の香りの記憶が強く刻まれ、左近は約束通りその日以来、時間を見つけては三成に会いに行った。
その間隔は日を追うごとに短くなり、二十日も経つ頃には会いに行く事が日課になっている程だ。
毎日村の入り口へと続く森へと消えていく左近を見て次第に村の人々も不審に思うようになっていたが、淀みなく村の政を取り仕切る事に誰も文句は言えなかった。
誰が何を尋ねても左近はのらりくらりとかわし続け、三成が誰にも見つからないよう注意を払っていた。
そしていつしか二人過ごす時間が何よりの楽しみとなっていった。
だがその日はいつもと様子が違っていた。
左近が会いに行く時頃になれば、三成は必ず桜の木の下で座って待っていたというのに今日に限ってはその姿が見えない。
どうしたのだろうと少し辺りを探して回ったが影すら見当たらない。
何かあったのだろうかと心配していると、森の奥に見える人影にぎょっとさせられる。
「さ、櫻守様……?!」
そこに現れたのは桜の化身。
村の鎮守であるこの大樹に宿る生き神様。
櫻守、その人だった。
「……どうしてっ…」
櫻守は社から出る事はなく、こうして空の下に現れる事などまずない。
左近はその姿に暫く言葉を失った。
『……よく聞きなさい。これから彼の者……三成の身に恐ろしい厄災が降りかかるであろう。それは私達が犯した罪であり三成には関係のないもの。しかし私達にはどうしてやる事も出来ぬ。故にどうか―――……三成を守ってやってくれまいか』
「櫻、守様……?それは―――…」
私達、と言った。
一体誰の事なのだと左近が言葉の真意を問うべく口を開きかけたその時だった。
季節を忘れて満開に咲き乱れる桜の下ですすり泣く三成が目に飛び込んできた。
「……三成さん?」
天よりも高い矜持を誇る彼が人前で泣いている。
それだけに事は尋常ではないと左近は慌てて駆け寄った。
三成はまだ左近の存在には気付いてはおらず、その腕には真っ白な肌をした女がぐったりと力なく倒れ込んでいる。
まるで、死人を思わせる顔色だ。
そしてその人物はいつかこの森で見た三成に似た女性だった。
「三成さん!一体何があったんです?!」
「さ……左近っ……!」
だが何を聞いても錯乱状態の三成の耳に左近の声は届いていないらしく、その体を抱いたままただうわ言を繰り返すだけだった。
母上が、母上がと。
「三成さん!!落ち着いて下さい!!」
初めて聞く左近の怒声に三成は驚いたように目を見開き、そして程なく体を小刻みに震わせて左近の腕に縋りついた。
左近はそれを優しく抱きとめ、気持ちが落ち着くように何度も何度も髪を撫でてやる。
そうしているうちに三成の気持ちも落ち着いてきたのか、左近の呼吸に合わせるように深呼吸してようやく言葉を繋げた。
「母上が………力を使いすぎて…こんなに衰弱して……もう…駄目かもしれないのだ……!!」
母上。力。衰弱。
左近は言葉の断片を頭の中で整理する。
あまりに早い展開に左近はこの状況についていくのに精一杯だった。
だが三成にかけた言葉を反芻させ、自分自身を落ち着かせる。
母上、つまり三成は櫻守ノ巫女の子供だったのだ。
巫女は神の所有であり、その生涯貞潔を守り通さなければならない絶対の存在。
そんな彼女に子供がいたとは微塵も考えなかった事だった。
しかしそれが本当ならば彼女が衰弱したというのも頷けるのも事実。
清い身でなくなった彼女がその不思議な力を次第に失ったというのなら、三成の存在を隠し通す為にも無理に力を使っていたのなら。
それももう限界に達したのだろう。
「……みつ…なり」
「あ……母上っ!」
小さく呼ぶその声に左近と三成は彼女の顔を覗き込む。
薄く目を開き喘ぐような呼吸を繰り返すばかりで、すでに言葉は失われかけていた。
「ごめんなさいね…貴方を最後まで守ってあげられなくて……」
「母上…死なないで下さい……ずっと共にあると……私と共にあると……言ったではありませんか!」
三成を見つめるその慈愛を含んだ瞳はまさに母のもの。
それに左近は三成が櫻守ノ巫女の愛息であると確信を持った。
「―――左近……」
突然名を呼ばれ、驚いたように顔を上げるとその優しい瞳とぶつかった。
「貴方の事はずっと見ていました…貴方になら…この子を任せる事が――…どうか…この子を守ってあげてください……」
「巫女様!しっかりしてください!」
「―――早咲きの桜…これも暴かれた私の力の一つでしょう……そして一番心配なのが……」
もうほとんど力の入らない腕を伸ばし、巫女は三成の頬を撫でた。
「……今まで…私の持つ力で制御していたあらゆる邪気がこの村を…この子を襲う事……だからどうか―――………」
そこまで言うと、完全に力を失い三成から優しい指先が離れた。
「…ははうえ………!母上…っ?!起きてください母上っっ!私を独りにしないで下さいっ!」
まだ少し人の温もりを残した巫女の肩を何度も何度も揺さぶり続ける三成を、左近は奪うようにきつく抱きしめる。
すると巫女から手を離し、三成は左近の逞しい腕に縋りついた。
「左近……左近!!」
「三成さん、大丈夫です。俺はどこにも行きませんよ。必ず貴方の側にいる……だからそんな風に泣かないで下さい」
「なっ、泣いてなどいない!」
それまでの弱弱しい態度を翻し、左近の身体を押し返そうとする。
だが左近はそれを許さず、更に腕に力を込めた。
大人しくなった三成の髪を撫で、今もこれからも自分は側にいる事を伝える。
不意に抱き合う二人を、優しい風が包み込んだ。
満開に咲き乱れる桜。
でも、春はまだ遠い。
左近はこの生暖かい不穏な空気に、巫女が残した最期の言葉に一抹の不安を覚えるのだった。
そして願わくば、彼女が残した最期の予言が外れることを祈る事しか出来ないでいた。
【続】