桜雲桜人、冤鬼零桜 一幕



この木には神様が宿っている。
それは子供達が遊びに来る度に漏らしていた左近の口癖のようなものだった。
だが誰もその神様に一度も会ったことがなかった。
しかも酔いどれの戯言と誰も信じていなかったのだ。


それは二人が不思議な男、左近と出会った翌年の春の事。
桜の咲き乱れる森で出会った不思議な光景だった。
虎之助は時々、市松は馬鹿正直に左近の言葉を信じて毎日のように桜を見に行っていた。
いつ神様が現れるのかとわくわくしながらその日を待っていた。
そして季節は春を迎え、左近の待つ木も風にたくさんの花弁をはらませている。
いつものように虎之助と市松は森を駆け抜け左近の元へとやってきた。
だがそこに左近の姿はなく、そこにいたのは見慣れない男だった。
「……なんだあれ……だれだ?」
「どこ?どこにいんだ?」
虎之助が指差す先にあるのはいつも左近がいる桜で、その枝に腰かけ遠くを眺め佇む男が一人いるのが見える。
二人は顔を見合わせた。
その男のいる桜だけは周りの木と違い、真っ白な花を咲かせている。
風に揺れる赤い髪から桜色の光りを放っているようだ。
「何だ、童。俺に何か用か」
「え?」
じっと見上げる二人の視線を感じ、男は睨むようにぎろりと目を向ける。
目を見張る程に美しい顔から放たれる冷たい視線は二人を怯ませるのには十分で、凍り付くように動きを止めてしまった。
目を向け、ぽかんと口を開けたまま微動だにしなくなってしまった虎之助達を見て、男は呆れたように一つ溜息を吐く。
「虎之助に、市松―――……だな?」
突然名前を呼ばれ、ますます混乱する二人の前に、男はふわりと舞い降りてきた。
桜の花弁を振りまき春風が舞うように、地面から数尺はあるかと思われる高さから羽のように着地する姿はまるで人とは思えない。
「かみさま……?」
「そっか!おっめぇさこんがいってたかみさまだな!!」
疑うような瞳を向ける虎之助と、興奮しきりの市松を見て男は眉を顰めると天を仰いだ。
「左近め……いい加減な事を言って惑わせおって……俺はそんなに偉くはない」
高圧的な態度で言われても言葉に重みがない。
虎之助の胡乱げな目に気付き、男は顎をくいっと上げると更に高圧的な瞳で二人を見下ろす。
何か言い返したいが、その瞳に射抜かれると動けなくなってしまう。
市松など完全に萎縮しきっていて足が震えているのが目に見えて解った。
自分がしっかりしなければ、と虎之助はぎゅっと拳を握り締める。
「じ……じゃあ……一体なにもんなんだよ…」
男が動く度にする微かな桜の香りに思考が狂わせる。
その姿はさながら平安の都にいた白拍子のような出で立ちで、それは優美なものだった。
しかし不思議な空気を纏ったその男はその質問に、美しい顔を一瞬悲しげに歪めた。
「さあな。あまりに遠い記憶故、忘れた」
殊勝顔は一瞬の事で、すぐにフンとあしらうように顔を背けた。
その尊大な態度にそれまであった恐ろしさは消え、二人の心に些かの苛立ちが生まれる。
だが男はすぐに二人の視線に合わせるようにしゃがみ込み、じっと二人の顔を見つめた。
「人の心にはな、それぞれ鬼が棲んでいるのだ」
「おに?」
「そうだ。善意には善意を、悪意には悪意をもって接する不思議な生き物の事。お前達には一体どんな鬼が見える?」
一体何を言っているのだと虎之助は首を傾げた。
市松は悪い頭で必死に考えているが答えが出るはずもない。
そこへいつもの調子で飄々としたあの男が酒を片手に近付いてきた。
「おや皆さんお揃いで」
「左近」
「……さ、こん…?」
薄紅の彼方から歩いて来る姿は、明らかにいつもと違っていた。
相変わらずの暗く紅い瞳と、漆黒の綺麗な髪の間から見え隠れする、その者の象徴。
驚いて何も言えない二人に男は先程までとは真逆の優しい声をかける。
「桜はな、人の心を鬼に変える力を持っているのだ」
「おに……?あいつが…?」
微笑みを返すだけで何も答えない男は二人に背を向け、それまで見せていた中で一番美しい表情を左近に向けた。
「左近!」
「ああ、よかった。二人に会えたんですね三成さん」
この美しい人が左近が待ちわびていた相手だという事は幼心にもすぐ気付いた。
三成と呼ばれたその人は最初二人に見せていた冷たい表情ではなく、優しい、柔らかい空気を纏い左近と話している。
仲睦まじく話す姿は鬼のそれには到底届かない優しいもので、これが村で恐れられていた鬼の正体だったとはと自然と笑いが込み上げる。
「さこん!おまえおにだったんだな!ぜんっぜんみえねえけど!」
虎之助は気遣い言えなかった言葉もあっさりと言ってのける市松に思わず拳骨を食らわせる。
痛いと涙目で怒る市松に代わり、虎之助がすまなそうに左近に頭を下げた。
だが左近は気にする風もなく、三成は苦笑いを漏らし二人に目を合わせるようにしゃがんだ。
「先刻言ったであろう?鬼とは良い心には良い心を返し、悪い心には悪い心を返すものなのだ。左近が鬼に見えぬというならお前達の心が正しきものという事だ」
三成の言葉は幼い二人には理解出来ないものだった。
ただ、左近も三成も恐れるような物の怪ではないという事はしっかりと心に刻まれた。
だがそんな二人の行動はすぐに養母にばれてしまい、しばらくは森への出入りを禁止されてしまった。
何とか目を盗み森へと行こうかと思ったが、大好きな養母を悲しませる事は出来ないと二人は言いつけを守り続けた。
そして半年以上の時が過ぎてしまった。
あの頃は真っ白な花を咲かせていた桜の木も今は真っ赤な葉をはらはらと落としている。
虎之助はどうしても二人の事が気にかかり、養母がいない時を見計らい市松と二人で桜の木へと向かった。
しかしそこに三成の姿はなく、左近が一人紅葉を眺め酒を煽っている。
「……さこん…」
「おや、お二人さん。久しぶりだな」
左近は二人に手招きすると嬉しそうに笑った。
だがそれも一瞬で、またすぐに紅葉に目を移す。
「なあ、三成はどうしたんだよ?」
市松の言葉に左近はふっと笑う。
そして小さくいない、と答える。
それ以上左近は何も言わなかったが、二人は悟ってしまった。
三成が桜の季節にしか姿を現さない桜の神なのだと。



「ねえ三成さん、また二人きりになってしまいましたね」
養母を悲しませたくないから、もうここには来れないかもしれないのだと、数ヶ月前最後にやって来た時に虎之助が苦々しく言った言葉を思い出し左近は自嘲気味に笑う。
「俺達とあいつらの時間の流れは違うんだから、入れ込むなって言ってたってのにこの様ですよ」
久しく感じていなかった寂しい、という感情に翻弄されていると左近は胸を押えた。
季節はさらに流れ、三成の宿る桜は色褪せてすでに細い枝だけとなっていた。
冷たい風が森を吹き抜け、季節は冬本番。
あの日以来虎之助も市松もここへは来ていなかった。
森に入っても養母が心配しない程に大きくなる頃にはすでに自分達を見る力は失う事となるだろう。
大人になり、少しずつ虚像を信じなくなれば見えなくなる事は長く生きてきた二人には解っていた事だった。
こうして出会いと別れを繰り返し、そして膨大な二人きりの時間を過ごしてきたのだ。
"左近―――…"
「……三成さん?」
暗い闇の底から聞こえてくる愛しい声に左近は驚いた。
長く過ごしてきたがこんな事は初めてだった。
寒風に攫われそうな声を聞き逃すまいと必死に耳を欹てる。
"何を情けない顔をしている、左近。鬼の名が泣くぞ"
「って……あんた何やって……どこから話してるんです?」
"お前が情けない声を出す故おちおち眠ってなどいられぬわ。尤も、声だけしか出せぬようだがな"
「それはどうも。で、何の用ですか?こうしてわざわざ声をかけてくれて……随分無茶してくれますね」
桜の季節にのみその力で姿を現せる三成がこうして声だけでも届けるには相当の力が必要なはずだ。
そんな無理をしてまで伝えたい事など、一つだろう。
「もしかして―――あの二人の事ですか?」
"流石だな左近……市松も虎之助も俺達を見る力を失っているようだ"
「そうですか……また二人きりに戻りましたね」
その時、左近の身を刺していた冷たい風が急激に暖かくなり、硬かった蕾が膨らみ始めた。
"左近!?何をしている!!"
暖かい春の空気を呼び起こした左近の周囲にある桜の木々は次々と咲き始める。
それは三成の宿る木も例外ではなく、すぐに真っ白な花を咲かせ満開となった。
はらはらと雪のように舞い散る花弁の隙間から三成が姿を現した。
「三成さん……」
限界まで力を使い果たした左近はよろよろとその場に座り込んだ。
三成の宿る木に背を預け、天を仰ぐと溜息を一つ吐いた。
「何をしているんだ左近!!何て無茶を……」
「結構きついもんですね……自然の理に逆らうってのは」
「馬鹿が…何故……」
「でも……声なんて聞いちゃ会いたくなるってのも自然の理ですよ」
左近は手を伸ばし三成の腕を掴むと力一杯に抱き締めた。
「左近……お前……」
「しばらくこうしてれば回復しますよ。だから……もう少しこうさせて下さい」
腕に力を込め、三成を抱き締めると温かい体温が流れてきた。
まるで血が通った人間のようだと左近はほっと肩の力を抜く。
「―――会いたかったですよ……本当に」
「それはいいが……あまり心配させるな」
「すみませんね」
反省の色などまるでないへらりとした表情を見せらせ、三成はそれまで心配で硬くしていた表情を和らげる。
「俺もお前も寂しいなどという感情など、もうとうに枯れたと思っていたがな……」
「そうですね」
「だが……終わらせねばなるまい、左近。また二人きりだが……俺達はずっと一緒だ。それだけは変わらない」
それは千年前からの約束だった。
互いが互いを守り、愛しんだ千年。
気が遠くなる程の時間も二人でいればそれだけでよかったのだ。

そして草木も眠る丑三ツ時。
左近は虎之助達の元へ行くと、その妖力で二人の記憶の中から自分たちの記憶だけを綺麗に消し去った。
その時見せた鬼の涙は、誰も知らない。

凛と咲く花の神以外、誰も。

【二章へ続く】

 

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