桜雲桜人、冤鬼零桜 一幕
1
「おいとらー!まだかよーおれつかれたー」
「つかれたんなら先帰れようるせぇなあ」
「そういうなよとらー……おれもつれてけよー」
「だったらだまってついてこいよ」
季節は春を迎える間近。
長い冬を越え、降り積もった雪が姿を消して、替わりに緑が生い茂る薄暗い森の中を二人の少年が突き進んでいた。
二人は村長に引き取られた養子で、よくこの森で遊んでいた。
いつもは森の入口付近で遊んでいるだけだったが、今日は何かに引き寄せられるように奥へ奥へと進んでいく。
先陣を切って好奇心旺盛に瞳を光らせながら突き進んでいるのは虎之助、その後を付いて歩いて文句ばかりを言っているのが市松で共に五歳だった。
だが世話のかかる市松は年よりもずっと幼く、虎之助を兄のように慕っている。
今日も本当は怖かったが虎之助が行くと言い張るので何かいい事があるかもしれないと思い付いてきたのだ。
そうして言い争いながらしばらく進むと突然前を歩いていた虎之助が立ち止まり、
余所見をしていた為気付かず進みつづけていた市松はその背中で鼻をぶつけてしまった。
「〜〜〜〜〜ったぁ…なんだよとらー…きゅうにとまんなよー」
「おい……あれ見てみろ」
小さな指先にはしめ縄が張り巡らされた仰々しい姿をした桜の古木があった。
二人は顔を見合わせると小走りでその木に近付く。
しかし足元を気にせず駆けていた市松は落ちていた枯れ木に足をすくわれた。
「うわぁっっ」
「どうした?!」
先を進んでいた虎之助が振り返ると地面に無様に転がる市松の姿が目に飛び込んできた。
その膝や肘には擦り傷が付き、血が滲んでいる。
「何やってんだよ馬鹿」
「いってぇええ!いてぇよとらー!」
「なさけない声でさわぐなよ……ただの擦り傷だろ」
「何やってんだ、お前さん達」
桜の根元で問答していた二人の頭上から突然する声に、弾かれたように顔を上げると男が一人、酒を片手に大きな木の枝に腰かけている。
「……だれだおっさん…」
「随分な挨拶だな、ボウズ達」
訝る二人の視線など軽く笑い飛ばし、男はふわりと地面に下りてきた。
その様はまるで人とは思えず、虎之助たちは言葉を失った。
呆然と立ち尽くす二人を見下ろすと、男は市松の怪我をした膝に手をかざす
「―――ってぇえええっっなにしやがんだてめえええ!!」
傷に触れられ派手に痛がる市松は思わずその手を撥ねつけた。
だが痛みが消えた事に目を丸くする。
「……あ…あれ?」
「男があまり大騒ぎするもんじゃない。みっともねえぞ」
「なっ、なっ……なんだてめえええ!!!にんげんじゃねえな!」
「お前さてはてんぐだな!俺達を食う気か?!」
その信じられない出来事に二人は男から距離を取り、じっとりと疑いの目を向ける。
しかし男は食えない笑みを浮かべ、どっかりと桜の下に腰を下ろして盃を傾けるばかりで何も答えない。
その様があまりに人間臭く、すっかりと警戒心を解いた二人は恐る恐るといった様子で近付いていった。
二人が察した通り、男はとても人間とは思えない力を持っている。
だがそれを隠す様子もなく、二人に危害を加える様子も見せない。
それに親子以上に年の離れているであろう二人の話にも耳を傾け真剣に応えてくれる。
単純な市松はすっかりと男に懐き、虎之助も警戒はしていたがそれ以上に男の話は面白いと思い、二人足繁くこの桜の下へと通うようになった。
その男は左近と名乗った。
どこに住んでいるのか、何をしているのか、全く語らなかった。
だがいつも桜の幹にもたれかかり、酒を美味そうに煽っているのだ。
薄墨の仕立ての良い着物は季節に合っておらず、しかし寒風に吹かれても飄々とした態度を崩さず、美しい黒髪を揺らしている。
そして時折寂しげな瞳を空に向けていた。
その瞳は黒の中に紅の隠れた燃え上がる色をしている。
それがまた人と違った雰囲気をより強くしていた。
「なーさこん。おまえいっつも何見てんだよ?なんもねえぞ?」
市松は左近の視線を追うように空を見上げるが、春を待つ蕾を付けた梢が見えるだけだ。
虎之助もつられて視線を上げるが、やはり同じ景色しか見えない。
左近はそんな二人を軽く笑って見せる。
「そりゃそうだ、お前さん達の目には映らないもんだからな」
「なんだよそれ!おれにもみせろよ!!気になんじゃねえか!」
もうそれ以上は話すつもりなどないと態度で示すが市松にそれは通じない。
しつこく聞き出され、左近は苦笑いを返す。
「もう少し……桜の季節になればお前さん達の目にも映るかもしれんがね」
「そうなのか?!おーっっっし!!だったら毎日見に来てやるぜ!」
「嘘じゃねえだろうな……」
市松と違い疑いの目を向ける虎之助に、左近は意外にも真面目な顔で答えた。
「その目で確かめればいい。この木には神様が宿っているんだ」
「神様?」
「ああ。えらく別嬪だが気難しい神様が、な。だからせいぜい祈っておくこった。桜の季節になったら会えますようにって」
子供相手だと馬鹿にしているのか、と相変わらず訝るばかりの虎之助と違い、市松は素直に左近の言葉に従い毎日木に向かい柏手を打っていた。
やがて季節は過ぎ、いよいよ暖かい日には蕾も綻ぶであろうという春がやってきた。
ここまできても、二人はまだ俄かに信じ難かった。
木に宿る神の存在など本当にあるのか否か、と。
【2へ続く】