カナリアと花嫁 8
彼の持つ魅力全てが美しい主は、そこにいるだけでぱっと花が咲いたように場が華やぐ。
女性を褒める言葉ではあるが、花の如き艶やかな姿とは正にというべきだ。
本人は矢面に立つ事を全く得手とせず、むしろ人当たりの悪さなど天下一である。
しかしその更に主である秀吉は派手な事を好み、部下の中でも際立って華のある三成を自慢するように交渉の場へ連れて行きたがった。
ただ人形のように見せるだけならともかく、三成は生きた人間だ。
相手が興味を抱き話しかければ答えもする。
しかし交渉相手と話せば間違いなく拗れる方向へ走ってしまう為秀吉が先に答えてしまい、三成自身が直接話す事はまずない。
常々、何の為にこの場に自分がいるのかと三成は自問しては答えが見つからずにいた。
だが話を聞き、的確に助言する事で役割を果たしている。
それらが相まり、秀吉はますます三成を重用する事となり、それが他の部下達の反感を買う原因となるのだ。
三成自身はどのような形であれ秀吉の役に立てれば良いと考えている為、絶対に不満を口にする事はない。
それにより心ない言葉を浴びせられる事も言われない誹謗中傷を受ける事も全く気にしていない様子だった。
だがそれを良しとしないのが三成の屋敷勤めの者達だ。
接待から帰宅した疲弊する三成を見ていられないといつも心を痛めている。
故に三成には絶対にばれてはならない事だが、この屋敷に勤める者達はあまり秀吉に対して良い感情は持っていなかった。
それは左近も同じで秀吉が主を使う様は最早重用を通り越し酷使だと常々苦い思いをしていた。
だが以前のような客員ならばともかく、今は三成に仕えている身だ。
そんな苦言を呈するわけにもいかない。
そうなれば自分に出来るのは、少しでも三成の負担を減らしてやる事ぐらいしかない。
だがそれすらも主は拒む事が多く、他の者達でも出来る雑用などまで抱え込み自分でこなそうとするのだ。
こんな時にこそ頼ってもらいたいというのに、まだ自分は信用に足りないのだろうかと少し寂しい思いがした。
それが彼の完璧主義がさせているものだと思っていたのだが、事の真相は別にあった。
大学が夏の長期休暇に入り、左近の主は論文に秀吉の仕事にとますます忙しくなった。
左近は帯同させてくれればもっと手助けが出来るのにと歯痒い思いを抱えていた。
未だ三成は左近を連れ歩く事はなく、一人出社している。
だが左近も暇をしているわけではなく、振り当てられた仕事をこなすにはいくら時間があっても足りない程だ。
しかし、これでは何の為に彼に仕えているのやらと思ってしまう。
否、彼の為に働いているのであるからその言い分はおかしいのだが、要するに主にあまり会えずにつまらない思いなのだ。
何とも子供じみた気持ちであるが、それは左近だけでなく、虎丸龍丸兄弟などはっきりと口に出してつまらないと言ってしまっている。
「左近様ー…三成様はいつお帰りになるのでしょう?」
「虎は殿が恋しいか?」
「私だけではありませんよ。この屋敷の者が皆我らが殿のお帰りを待っているのです。やはり三成様がいなければ張り合いがござりませぬ」
確かにその通りの様だ、と左近は声を上げて笑う。
この休みが明ければ二人は遅ればせながら、学校へ通う予定となっていて、ますます主と顔を合わせる機会が減ってしまうのだ。
自分達で決めた事とはいえ、本当につまらないと不貞腐れたように二人で同時に溜息を吐く。
「なんだい、この様は。随分な様子じゃないか」
「大谷様…!……ようこそおいでくださいました」
仕事の気分転換を兼ねて、左近は兄弟がしていた庭掃除を手伝っていたのだが、一刻もしないうちに三人は暑気に当てられ涼しい縁側で伸びていた。
そこへ突然現れた主の親友に、三人は慌てて居住まいを正す。
「突然来てすまないね。これ、土産だよ。屋敷の皆で食べてくれ」
「は、お心遣い感謝いたします」
大谷は長く自分の任されている領地へ赴いていたらしく、この屋敷にやって来るのは左近が猫の一件を尋ねて以来だ。
左近が言うよりも早く兄弟はもてなしの為に動き始め、すぐに座敷に座布団が準備された。
大谷はそこへ腰を下ろし差し出された冷たい麦茶で喉を潤す。
そしてようやく何故やって来たのかを話し始めた。
「三成は忙しいようだね」
「ええ、今日は大殿に帯同していましてね。戻るのは明日になるやもしれませんな」
「それで虎も龍もつまらぬと愚痴を零していたのかい」
聞いていたのかと、左近の後ろに控えていた二人は顔を赤くする。
しかし大谷はそれは自分も同じだからと言って笑った。
「まったく、大殿にも困ったものだ。行く先々で三成を自慢するは良いが些か度が過ぎる。あれではますます三成への風当たりが強くなるばかりだよ」
やはり彼も同じ事を思っていたかと左近は微妙な表情だけを返す。
主の、その主を悪く言うのは流石の左近も出来ない事だ。
それを汲んでか大谷も返答を乞うような真似はせず、話を続ける。
「三成も適度に断れる奴ならばね、こんな風にはならないんだろうけど……まぁあの三成がそんな器用な真似が出来るはずもなかろう」
なあ、と同意を求められ、今度は左近も苦笑いを浮かべながら頷く。
だからこそ出仕する彼に付き添い、そうならないよう立ち回る事が今彼に出来る最大の奉仕だと思っている。
だがまだ主はそれを許してはくれそうにない。
「大谷様はご存じなのでしょう」
「何がだい?」
故に左近はその核心に迫った。
大谷もそれを見越して今日この茹だる暑さの中やってきたのだろうという思いもあったからだ。
「殿が……あの猫を飼いたがらない理由を」
大谷は一瞬遠い目で庭を見た。
そこに何か思いを馳せるようで、左近は声を掛ける事は出来ない。
しばらくじっと一点を見ていたが、ふう、と一つ溜息を吐いて左近に向き直る。
「それを聞いて、お前さんはどうするつもりなんだい?」
「どうするもこうするも、聞いてみなきゃ解りませんよ」
それもそうだと大谷は納得して、左近の背後で泣きそうな顔を見せる兄弟に下がるように言った。
彼らに聞かせられないような話なのか、あるいは。
左近は心を覆い始めた黒い幕に気付かない振りをして大谷の言葉を待った。
「三成は……己が為に人が傷付く事を良しとしない。まぁそんな事は誰だってそうなんだろうけどね、普通の感覚の人間なら。だがあれを嫌う者は常人の比ではない。とにもかくにもあれの周りは敵だらけなんだよ。故にどうしても己が周囲の者にまで被害が及んでしまう」
そこまでの言葉でだいたいの話が見えてきた。
三成が何故自分を連れ歩かないか、それは無用な衝突によって左近に危害がいかない為だろう。
様々に理由は想像していたが、それは全く予想していなかった事だ。
「敏いお前さんの事だ。大体の事情は察してくれたんだろう?」
「まあ、粗方は。だが俺の質問の答えにはなってませんよ」
「ああ、猫の事か……」
はぐらかすつもりだったのかと疑ったが、本当に忘れていたようで大谷は珍しく照れた様子を見せる。
頭の中の三成の事に気を取られ、左近の質問を忘れてしまっていたようだ。
左近は軽い調子の笑いでその空気を流す。
大谷もそれに応えて少し笑った後、真面目な表情に戻った。
「三成を嫌う者と、よからぬ思いで擦り寄る者は等しく多い。あの美丈夫では然りと思うが……そやつらに対する三成の態度は己を嫌う者以上に厳しいんだよ。それこそ、一部の隙も見せずに相手を叩きのめす……あれに優しい言葉など無理な話だが、一縷の希望もない相手をいつまでも思う事はないという気持ちを伝えているつもりらしい。本人はな」
色恋の揉め事は仕事などの比ではない怨みを生む。
懸想する相手に、あの美貌から放たれる冷酷な言葉を受ければ思いつめた相手は何をしでかすか解らないだろう。
左近の思考は悪い方悪い方へと走っていった。
そしてそれは左近の想像の範疇を超えてしまった。
「三成は一年ほど前にも猫を飼っていたのだ。龍が拾ってきた…まだほんの仔猫で再び捨てよとも言えずに飼う事にな。しかし最初こそ戸惑っておったのだが皆で可愛がっていて……だがある時庭に投げ捨てられていたんだよ」
「まさかその猫が……?」
「異常なものだったね。刀か何かで斬りつけられたようで、体中傷だらけの状態でな……この家の者も、三成も酷く傷付いたんだが……三成を追い詰めたのはそれだけじゃなかったのさ」
大谷は何かを思い出したようで一瞬顔を歪め、押し黙る。
だが絞り出すような掠れた声で再び語り始めた。
「以後同じような事が幾度となく起きた。猫だけではない。三成の大切な物、三成の……近くにいる者。傷付けられ、失い……流石の三成もその異常さに恐怖を覚えていたようだね」
当然だ、主は芯の通った強い人だが、同時に驚く程に儚い部分も持ち合わせていると左近は知り得る限りの三成の記憶を引き出す。
殊、身近な大切な人に対しては非常に脆いのだ。
それはある種三成の弱味、弱点ともいえる。
「まさかとは思いますけど……身近な人だったんですか?下手人は……」
「流石に敏いな、お前さんは。話していてなかなか爽快だよ」
おどけるように言葉を挟み、少しの間を置いてから大谷は真相を口にした。
「かつて大殿の側仕えをしていた男よ。三成の事を幼い頃から可愛がってはいたんだが……悋気に狂い、己を見失い、三成から全てを奪おうとしたのさ。己のものにならぬなら殺してやるとも……」
この家にやってくるまで、左近もそれなりに色恋の修羅場を潜ってはきたが、それほどまでに異常な愛を向けられた事はなかった。
勿論当事者となり相手を追い詰めるような事もない。
そんな異常者に目を付けられた三成は相手を恨む事より先に己を責めてしまったのだ。
「他に疎まれるような己に尽くしてくれた者を傷付けてしまった事に並々ならぬ心傷を負ってしまったようでね……島殿を遠ざけるのもその辺が原因だろう」
それで万が一の事を見越し、武芸に長けているかなどと尋ねていたのだなと思いつく。
そしてそのような事情があってなお、己を手放そうとせず共にいる事を望んでくれていたのだ。
少しは自惚れてもよいかもしれないと場にそぐわぬ笑みを堪えるのに必死になる。
「島殿は三成が唯一自ら進んで臣下にせんとした者。これからも何かと苦労をかけるやもしれぬが……まあよろしく頼むよ」
「それは勿論ですが……唯一って……どうしてです?この屋敷には他にも」
「この家の者は皆大殿の使用人という名目なのだよ。あんな事があってな、三成が自分の元へは人は置いてはおけぬと……だが暇を出すわけにもいかない事情の者ばかりだからどうかこの者達を秀吉様の元へと……給金は今まで通り自分が工面するからと言って遠ざけてしまった。故にこの家の者は皆あれを殿と呼ばんだろう?」
だが使用人達の強い願いや、秀吉やねねの心配もあり、秀吉の命の元といって彼らは三成に奉公しているのだ。
先刻虎丸は三成を我が殿、と言っていた。
三成自身は遠ざけようとしているようだが、屋敷の者は皆三成を主人として慕っているという事だ。
そして当事者の男は事を知り激怒した秀吉により遠隔地へと飛ばされ、もう会う事もなくなりようやく三成に平穏が戻った。
ずっと疑問に思っていた事が順に解け、三成の核ともいえる場所に近付いていっている。
それはとてつもなく厄介な事ではあるが、不思議と面倒に思う事も離れたいと思う事もなかった。
【9に続く】