カナリアと花嫁 6
こうして側にいる事を許されて久しくなった左近だが、その間に見たものは世に悍ましい欲の数々だった。
この主は今までは一人でこれだけ欲の数々を、この細い背に負ってきていたのかと驚かされるばかりであった。
あれ程までに面倒で嫌な事に巻き込まれてしまったと思っていた見合い話ではあったが、今となってはどうしてもっと早くにこの人と出会わなかったのかと悔やまれる。
自分が側にいればもっとこの人を楽に生きさせてやる方法もあったのではないか、と。
しかしそれは恐らく石田家家中の者や、あの大谷も共通して思っている事だろう。
とにかく放っておけない御仁なのだ。
傍目に危なっかしくてならない振る舞いが多く、そのくせ自分ではしっかりしていると思っているのだから始末に負えない。
だから余計に放っておけないと感じるのだ。
そんな三成を取り巻く中には様々な色がある。
それは金銭であったり、立身出世であったり、その名の通りの色欲であったりと様々だ。
共通するのはどれもあまり褒められるべき類の感情ではないという事だろう。
秀吉への間接的な媚び諂いを年若い三成を御する事でしてのけようとしたり、三成本人を見る者の殆どがその目に語るも悍ましい色を宿している。
だがそんな欲に晒されながらも三成は驚く程に穢れがなかった。
彼の心には芯があり、決してぶれる事の無い強さがあるのだ。
それは時に頑固とも偏屈とも言われるが、それがなくば最早彼は彼ではありえないだろう。
そうあってこそ、この石田三成なのだ。
とはいえ、せめて自分の言葉はもう少し素直に聞き入れてもらいたいと左近はこっそりと溜息を吐いた。
「殿、また朝餉を召し上がらなかったでしょ。厨の者が嘆いてましたよ」
「今日は秀吉様の元に行ってから大学へ行く予定であった故時間がなかったのだ」
「それは良くない。前もって言っておけば握り飯か何かを持たせてくれたでしょうに、さては寝坊されましたね?」
ぐっと言葉を詰まらせ、図星であると表情に出ている。
自分がいなければこれだと左近はもう一度溜息を吐く。
今朝は別の用事を言いつけられ屋敷にいなかった。
その所為でいつもならば口煩い左近に負ける形でどんなに急いでいる時でも必ず何かを食べて家を出る三成が朝食を摂らなかったのだ。
昼で授業を終え、帰宅した三成を玄関で待ち構えていた左近が顔を見るなり説教を始める。
「また昨日も遅くまで書物を読まれていたんでしょう?随分な時刻まで灯りが見えてましたが?」
「……お前……俺の行動をいちいち監視しているのか。気持ち悪いぞ」
「そう思うならそうされないようご自重下さいよ、殿」
はっきりと言ってもまったく動じず小言を忘れない左近にとうとう折れる形で三成は小さくすまない、と呟いた。
それまでの高圧的で不遜な態度など何処へ行ってしまったのか、三成は目に見えてしょげてしまう。
それを見て思わず左近は吹き出しそうになった。
ここで笑ってしまえば折角素直になった主を刺激しかねないと寸前で堪える。
「とにかく、腹が減ったでしょうに。何か考えるにしたって頭に滋養を与えなきゃなりませんな」
「分かっている……」
苦々しく呟く横顔にはうんざり、と書いてある。
だが言っても言っても聞かない主に根負けするわけにはいかない。
行いを正していくのも己の務めと左近は心を鬼にする。
「殿、昼餉の仕度はもう出来てますんで。手を洗ったらすぐ来て下さいよ」
「分かっている!お前最近遠慮がなくなってきて少し口うるさいぞ」
「それが左近の仕事ですから。煩く言われるのが嫌であればご自分で律すれば良いでしょ」
己の世話一つ出来ないと言われた心持ちになったようで、三成はみるみる膨れっ面になる。
そして頭一つ大きい左近を見上げると噛み付くように顔を近付けた。
「見ていろ、明日からは必ず文句一つない振る舞いで過ごしてやる!お前の仕事がなくなる程にな!」
「それはそれは、楽しみですな」
どうせ無理だ、と書かれた左近の表情に子供のように頬を膨らませぷいっと踵を返し、いつも食事を摂っている座敷へと歩いて行ってしまった。
嵐が立ち去った後、左近は我慢ならないと手で口元を押さえて笑い出した。
「……まるで子供の癇癪だな」
本当にからかい甲斐の、とそこまで考えて思い直す。
否、仕え甲斐のあるお方だ、と。
ここまでを織込み済みでやり取りをしていたなんて彼は思ってもいないのだろう。
「左近様?如何なさいましたか?三成様はすでに御膳の前で左近様をお待ちですよ」
暫く立ち止まり笑いを噛み殺していると、厨から来た壮年の女中に不思議そうに尋ねられてしまった。
「え……?殿が?」
「ええ、召し上がらないのですかと尋ねたら、同じ頃に食べ終えねば片付けが二度手間になるなんておっしゃって」
「そうですか……参ったね」
「早く行ってさしあげないと、またご機嫌斜めになってしまいますよ」
その言葉の裏にある意味を悟り、苦笑いする左近に女中も同じ表情を返す。
三成とは、否左近の母親と同じ頃の年嵩の女中は三成の素直でない態度など手馴れたもので、早く早くと左近を促した。
分かりにくくはあるがこうして甘えてくれるようにもなった。
しかし何を思っているのか、三成は決して個人的に左近と関わろうとはしなかった。
仕事の手助けなどを求められる事はあっても、それ以上左近と関わる事を拒絶しているように思う。
会社に行く際も、大学へ行く際も、左近を伴う事はなく、必ず別行動を取るように予定を組んでいた。
最初は特殊な関係である自分との関わりを人に悟られたくないからかと思っていたが、どうにもそうではないらしい。
では何故このような態度を取るのか、その理由の一片を左近に知らしめたのは一匹の猫だった。
石田家の屋敷にはよく猫が遊びに来ていた。
飼っているわけではないのだが、時折餌を求めてふらりとやってくるのだ。
主は餌をやれば居ついてしまうかもしれないからやるな、と言っているくせに、自分はこっそりと煮干を与えているところを左近は何度も目撃している。
その時に見せる子供のような笑顔など、普段の彼からは想像もつかないほどだと甚く感心したものだ。
飼ってはいない、が実質三成の飼い猫も同然なのだ。
それは屋敷の者も分かっているようで、猫がやってくれば主に内緒で餌を与え、またこの屋敷にやってくるように仕向けていた。
突然やって来なくなり三成が寂しがったりしないようにと。
ならば、そこまでしているのに何故飼ってやらないのかと疑問に思う。
家中の者ならば何か知っているのではないかと尋ねてみるものの、誰も答えようとはしなかった。
「猫?」
「はあ、庭にね、やってくるんですが……」
「それを三成が可愛がってるの?へえ……あの子がねえ」
左近が正式に三成に召し抱えられて以来久しくやって来ていなかったねねだが、久し振りに左近の作ったご飯が食べたいのだと遊びに来たのだ。
これは好機と左近は猫の存在を明かしたが思ったような答えは得られなかった。
「動物好きだったなんて聞いた事ないなあ…あたしが知らないだけなのかな。そうだ、吉継には聞いたの?」
「あのお方にならとっくに尋ねましたよ。のらりくらりとかわされましたがね」
「だよねー……それでこその吉継だわ」
大谷は左近が三成の側にいる事を良しとしている。
当然だろう、今こうして三成の側にいるのは大谷の助言あってこそなのだ。
あのお節介がなければ恐らくは今も平行線を辿っていたはずだ。
しかし、大谷はあくまで三成の為の行動しか起こさない。
左近にはもっと悩めとばかりに人を惑わすような事ばかりを言う。
要するに、三成の事を思えば左近を必要としているが、平たく言えば気に食わないのだろう。
懇意にしている三成に親しくする者が現れた事が。
だからねねを頼ったものの、羽柴家にいた頃には特に動物を可愛がっていた事はないらしい。
ねねはうーん、と唸りながら何やら考え込み一つの結論を導き出した。
「あの子はさ……冷たいとか、人間味に欠けてるとか言われてるけど、ほんとは凄く情に厚い子なんだよ。それがごく一部の限られた人にだけしか見せない所為で、その他大勢になっちゃった人はそうやって悪く言うの」
「それは……はい。そう思いますね、俺も」
家中の者の態度や彼らに対する三成を見ていれば一目瞭然であった。
左近の答えが肯定である事にねねは嬉しそうに笑う。
だがすぐにまた困ったような、悲しい笑顔に変わってしまった。
「だからかな……人と距離を置きたがるの。その人が離れた時の事を考えて……無意識にそうしちゃうみたい」
もしも目の前から消えたとしても、大丈夫、寂しくないと己に言い訳するように他人との距離を取る傾向にあるのだと言ってねねは目を伏せた。
頭で考えて感情で動かない彼らしい事だと半ば感心する思いだ。
「そんなの……心配しなくていいのにね。あの子の心を直に見た人は皆……あの子をほっとけなくなるのに」
ねねの言葉通りだと左近は深く頷いた。
石田三成という人は本当に面白い人物だった。
内に入れた者にはとことん甘く、そしてそこに入った者はそれ以上に彼に甘い態度で接する。
住み込みの連中など三成に対し家族同然の親愛の情を向けている。
そして三成もそんな彼らには最大限の心尽くしで待遇していた。
給金だけではない、働く環境なども考え、皆が毎日をより良く過ごせるよう努力している。
それは家中の者だけにではなく、親しい者にはそうして心を砕くのだ。
だがそうではない人間に対しては驚く程に冷たく厳しい。
人としての優しさがまるでないわけではない。
しかしどうにも人当たりが悪く、彼の吐く毒に免疫のないも者は敬遠したがる。
だからこうまではっきりと評価が二分されてしまうのだ。
幸いにも左近は彼の内に入る事が出来た。
たがまだ二人の間には大きな壁があり、完全に心は許してもらえていない。
あと一歩、彼に歩み寄れればと思うのだがそれはまだ叶わなかった。
【7に続く】